3280207 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

人生朝露

人生朝露

大鵬図南と"From a Distance"。

荘子です。
まだまだ荘子やってます。

今日は基本中の基本、逍遥遊篇から。坪内逍遥の逍遥です。

Zhuangzi
『北冥有魚、其名為鯤。鯤之大、不知其幾千里也。化而為鳥、其名為鵬。鵬之背、不知其幾千里也。怒而飛、其翼若垂天之雲。是鳥也、海運則將徙於南冥。南冥者、天池也。齊諧者、志怪者也。諧之言曰「鵬之徙於南冥也、水?三千里、摶扶搖而上者九萬里、去以六月息者也。」野馬也、塵埃也、生物之以息相吹也。天之蒼蒼、其正色邪。其遠而無所至極邪、其視下也亦若是、則已矣。』(『荘子』逍遥遊 第一)
→北冥に魚がいる。その名を鯤という。鯤の巨大さたるや幾千里あるかわからないほどだ。化して鳥となり、その名を鵬という。翼を広げた鵬の巨大さたるや、これまた幾千里あるかわからないほどだ。ひとたび鵬が飛び立つとなれば、その翼は天空に雲がたれこめるのと見紛うばかり。大海に嵐が湧き起こるのを見るにおよび、巨鳥はおもむろに南冥へと飛び行く。南冥とは天の池のことだ。怪しげな事象を記述する「齊諧」によれば、『鵬が南冥へと移るとき、三千里の水面を打ち、風の助けを得て、半年もの間休むことなく、九万里の空へと上昇する。』とある。見るがいい、陽炎が立ちのぼり、塵埃が吹き流れ、生物が互いに息づいていいる地上の様を。空が青々としているのは、本当の「空の色」なのだろうか?限りなく遠いところにあるから青く見えるのではないだろうか?鵬の高みから見下ろせば、この大地は青一色なのだろう。

かぐやによる地球の出の映像。
「生物之以息相吹也」とかの表現もゾクゾクします。

参照:長岡半太郎と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5007

Zhuangzi
『且夫水之積也不厚、則其負大舟也無力。覆杯水於?堂之上、則芥為之舟、置杯焉則膠、水淺而舟大也。風之積也不厚、則其負大翼也無力。故九萬里則風斯在下矣、而後乃今培風。背負青天而莫之夭閼者、而後乃今將圖南。』(同上)
→水かさが減りすぎると、大きな船を支えることができないように、土間に杯の水を零しても、せいぜい埃を浮かばせるくらいのものだ。杯を乗せたところで地面に足がついてしまう。風もその厚みがなければ大鵬の翼を支えることはできない。大鵬は己を支える風を求めて、遥かなる上空に舞い上がり、しかる後に進むべき道を定める。背負うのは蒼天のみ。さえぎるものの何一つない大空で、大鵬は今まさに南を目指そうとしている。

・・荘子はまず、鵬という巨大な鳥の話をもってきて、しがらみのない世界を示します。
ま、「翔べ」ってことです(笑)。

「狂歌百物語」 大鵬の図。
上の図は鵬(ほう)を「スケールに入りきらない」という表現をしています。上手いですね。日本でも辞書に載っている成語として「大鵬図南(となん)」というのがありますが、知名度はいまいち。

参照:Wikipedia 鵬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%AC

杜甫(712~770)。
この逍遥遊篇の冒頭は詩聖・杜甫の『泊岳陽城下』で、「図南未可料 変化有鯤鵬 (図南未だ料(はか)る可からず、変化鯤鵬(こんほう)有り)」と表現されています。「南を目指すが、先は見えない。この世は鯤が鵬に化すように定まらない」くらいの意味ですかね。

Zhuangzi
『蜩與學鳩笑之曰「我決起而飛、槍?、枋、時則不至而控於地而已矣、奚以之九萬里而南為」適莽蒼者三?而反、腹猶果然、適百里者宿春糧、適千里者三月聚糧。之二蟲又何知。小知不及大知、小年不及大年。奚以知其然也。朝菌不知晦朔、?蛄不知春秋、此小年也。楚之南有冥靈者、以五百歳為春、五百歳為秋。上古有大椿者、以八千歳為春、八千歳為秋。而彭祖乃今以久特聞、衆人匹之、不亦悲乎。』
→鵬が飛び立つ姿をみながらヒグラシとハトが笑ってこう言った。「おれたちはニレやマユミの木の間を飛べれば充分だし、たまにおっこちたりもしているけど、あの鳥は九万里の先を目指そうとしている、なんてバカなマネをしているんだろう。」
→野原に出かけるくらいなら、三食も携えれば満腹でいられるだろう。百里の先を旅するならば一日中米を搗いて食べ物を用意する必要があり、千里の旅をする人は、三月の間食料の用意に走り回るものだ。ヒグラシやハトに、大鵬の飛翔の意味は分からない。小知は大知に及ばず、小年は大年に及ばない。何を以ってそのありさまを知るのだろうか?朝の間しか生えないキノコは、夜の存在を知らず、夏の間に命を落とす蝉は、春と秋の存在を知らない。これが小さな歳月だ。楚の国の南に霊木があり、この木は五百年を春とし、五百年を秋とするという。太古の昔には、大椿という木があって、八千年を春とし、八千年を秋としたという。世の中では伝説の中にある八百歳の長寿を保った彭祖(ほうそ)にあやかって長生きしたいという人がいるが、悲しむべきことではないか。

ちなみに、儚い命の象徴としての「蝉」というのは、「箕踞洛之草廬、而談李老之虚無、説荘生之自然」という吉田兼好の『徒然草』の第七段「あだし野の露に消ゆる時なく・・」に使われています。
吉田兼好です。
『あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。 そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出ヰで交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。』 (『徒然草』第七段)(「命長ければ辱多し」は『荘子』の天地篇です。)

これは芭蕉の、
芭蕉。
「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声」

でもあるわけです。
仏教だと思われがちですが、老荘思想です。

で、
Zhuangzi
南郭子?隱机而坐,仰天而?,荅焉似喪其?。顏成子游立侍乎前,曰:“何居乎?形固可使如槁木,而心固可使如死灰乎?今之隱机者,非昔之隱机者也。”子?曰:“偃,不亦善乎而問之也!今者吾喪我,汝知之乎?汝聞人籟而未聞地籟,汝聞地籟而未聞天籟夫!”子游曰:“敢問其方。”子?曰:“夫大塊噫氣,其名為風。是唯無作,作則萬竅怒?。而獨不聞之??乎?山林之畏佳,大木百圍之竅穴,似鼻,似口,似耳,似枅,似圈,似臼,似?者,似?者;激者,?者,叱者,吸者,叫者,?者,?者,咬者,前者唱于而隨者唱?。?風則小和,飄風則大和,萬風濟則?竅為?。而獨不見之調調、之??乎?”子游曰:“地籟則?竅是已,人籟則比竹是已。敢問天籟。”子?曰:“夫吹萬不同,而使其自已也,咸其自取,怒者其誰邪!”(『荘子』斉物論 第二)
→ 南郭子?(なんかくしき)は肘掛にもたれ、空をあおいで大きく呼吸をしている。まるで何かの抜け殻のようにみえた。前に控えていた顔成子游(がんせいしゆう)は気になって「先生どうなさいました?まるで外から見れば枯れ木のよう、心のうちは灰のようになっていらっしゃいます。昨日までの先生とは別人のようです。」「偃よ。お前には隠せないな」ふと我に返った彼は答えた。「今、私は無になったのだよ。いやいや、お前は人籟(じんらい)が聴こえても、地籟(ちらい)は聴こえないだろう。地籟が聴こえても天籟(てんらい)は聴こえないのだな。」「なんです、その天・地・人の声というのは」。子?は答えた「大地の吐く息、それを風という。ただ吹いているのではない、ひとたび大地の息が駆け抜けると、地上のあらゆる穴がいっせいに鳴り響く。お前も聞いたことがあるだろう。風が山林に吹いてざわざわと鳴り出す様を。巨木にあいた数百のあな、鼻のような、口のような、耳のような、枡のような、杯のような、臼のような、井戸のような、水溜りのような、形も深さもさまざまな穴を通して、いろんな声を出す。ごうごう、ざわざわ、ひゅうしゅう、しゅうしゅう、さらさら、ちりちり、きいきい。前の風がひゅうと鳴って、後の風はごおっと去る。大地の呼吸が止むと、ただの空っぽの穴ぼこだ。お前は木が大きく揺れた、小さく揺れたとしか見ていないだろう。しかし、そこには大いなる大地の呼吸の音がある。」「地籟は風があらゆる穴から通り抜ける音、人籟は人の息が空っぽの木の管に息を吹く音、笛や笙のようなものですね。ならば天籟とは何ですか?」「天籟はこの世界のあらゆるもの。万物が鳴るに任せて鳴らせている音さ。おのおのが、おのおのの、おもむくままに鳴り響く。はたして、この世にあふれる音はいったい誰がならせているのかね?」(『荘子』斉物論 第二)

逍遥遊篇と斉物論篇の最初の部分を合わせると、こんな感じになるんです。

参照:From a Distance (with lyrics)
http://www.youtube.com/watch?v=1A6pUSy5tP8
(やっていることは同じなんです。ベット・ミドラーの“Wind Beneath My Wings ”も荘子っぽい。)

遥か遠くから見下ろせば、人間の対立や差別は実にくだらないものだと気づきます。高尚な政治理論さま同士の争いが、よくよく見ると犬も食わない夫婦喧嘩と同程度であることはよくある話です(笑)。しかし、人間の都合を捨てて、自然の営みを見渡すと、実に調和が取れている。万物を楽器にたとえるとして、その万物がそれぞれ奏でる音は総体においては一であり、足すことも引くこともせずに、調和しているではないか。という意味もあるわけです。これが、老荘思想における「和(和諧)」であるとすると楽です。

太極図です。

参照:Ebony & Ivory-Stevie Wonder & Sir Paul McCartney
http://www.youtube.com/watch?v=CmALA8miQY8

参照:智者老子
http://www.youtube.com/watch?v=KwbbWZftyJ4

後で推敲します。

今日はこの辺で。


© Rakuten Group, Inc.